武とは、戈を止めること|勝っても、争いは終わらない
- ソライルの視点

記事の監修
IT・WEB集客の専門家
波多野 明仁(Akihito Hatano)
WEB業界歴20年以上。大学生の頃に約50サイトを制作・運営して収益化。ITシステム開発会社でSEを6年間経験したのち独立。東証プライム企業をはじめ、これまでに4,000サイト以上を改善。自社メディアの制作・運営で培ったアクセスアップのノウハウを、クライアント企業のWEB集客に活かしている。1年でアクセス数が715倍になった企業、売上が25倍になった企業など、法人実績多数。
こんにちは、株式会社ソライル Web集客コンサルタントの波多野です。
投げられたのに、笑っている人がいます。道場で何度も見てきましたし、私自身、何度も笑いました。
力任せに倒されたときは、悔しさが残ります。ところが、ある投げ方をされると、背中がついた瞬間に笑ってしまう。同じように転がされているのに、負けた感じがしないのです。やられた、ではなく、そう来たか、という感じでしょうか。
第1弾「Web屋が世界平和を語る理由」で、戦いから生まれたはずの武術がなぜ世界平和を目指すのか、いずれ改めて書くと約束しました。今日がその回です。
武とは、戈(ほこ)を止めること。武術は、戦うための技術ではなく、戦わないための技術だ。師匠から何度も聞かされた言葉です。
ホワイトボードに、先生は「武」と書いた
私が武術を学び始めたのは、2014年です。会社をつくったのも、同じ年でした。
当時の私は会社員をやめ、Webコンサルタントとしてフリーランスで働いていました。その頃から「世界平和とは何か」を探し始め、同じ言葉を掲げる人たちに会いに行っていました。
その中にいたのが、後に師匠となるレノン・リー先生です。酔拳の世界チャンピオン。武藝団の創設者として、中国武術の世界チャンピオンを何人も育ててきた方です。
初めてお会いしたのは、大阪です。一般の人も参加できる数百人規模の講座があると知って、会いに行きました。一番前の席に座っていたら、運よく舞台に上げてもらいました。やったのは、腕相撲です。
まず「私は、自分のために働きます」と口に出してから組みなさい、と言われました。次は「私は、80億人のために働きます」と言ってから、もう一度。相手も同じ、体も同じです。それなのに、後者のときのほうが力が出ました。
舞台の上で、私はただ驚いていました。何が起きたのかは分かりません。その不思議さに惹かれて、この先生に教わろうと決めました。
その日、もうひとつ印象に残ったことがあります。この世界には、強さを持っている人ほど、それを誇って見せる方もいます。先生は違いました。数百人の前に立つ人が、初対面で、しかもずっと年下の私にも、当たり前のように敬語で話す。強い人が威張らないというのは、こういうことかと思いました。これは、教わるようになってからも変わりませんでした。
稽古に通いはじめて、しばらく経った頃です。先生がホワイトボードに字を書きながら教えてくれました。
書かれたのは、「武」という字です。この字は、戈(ほこ)と止(とめる)でできている。戈は武器のことです。武とは、武器を振るうことではなく、二人が交える二つの戈を止めることだ、と先生は言いました。

字の成り立ちには、学者の説が分かれるようです。「止」を「足」と読んで、武器を持って進むことだとする解釈もありますが、それでも私はこの読み方を採用しています。
武と聞いて思い浮かぶのは、戦って相手を倒す姿です。突き、蹴り、投げ、関節を極める。どれも目の前の相手に向いています。ところがこの字は、目の前の相手ではなく、争いという出来事のほうを見ていました。
自分も、他人も、負けない

先生からは、武という字のほかにも、いろいろな言葉を教わりました。なかでも「自他不敗(じたふはい)」は、いまでは私の座右の銘になっています。自分も、他人も、負けない。負けさせない。
初めて聞いたときから、いい言葉だと思いました。ただその時は、自分の仕事にどう置き換わるのかは、分かっていませんでした。
二人が戈を交えているところへ入って止めるなら、片方の味方をして勝たせるのでは終わりません。それでは勝つ側が入れ替わるだけです。どちらも負けない形におさめる必要があります。それには、単に力で上回るだけでは足りない。
しかも止めるのは、起きてしまった争いだけではありません。そもそも起きた争いを止めるのは大変だから、はじめから戦いにならない状況をつくる。そこまでが、この字の話でした。
戈を止める、と聞いて頭に浮かぶのは、国と国の戦争です。世界平和を掲げていた私も、まず思ったのはそこでした。ただ、自分に何ができるかとなると、正直、途方に暮れます。
かといって、身近に止めるものがあるわけでもありません。私は誰かと戦っているつもりがなく、仕事の相手を倒そうと思ったこともありませんでした。その頃は、自分の仕事や日々の活動を、争いとは無縁のものだと思っていました。遠くには手が届かず、近くには見当たらない。そのような状態で、稽古に通っていました。
倒すつもりのない相手を、倒してしまった
あるサイトの改善を頼まれました。良いものにしようと、ページの構成から見直して大きく作り変え、依頼主にも喜んでいただけました。
ところがしばらくして、元のサイトを作った方が出てこられて、強く怒られました。一生懸命つくったものを、変えられた、と。
最初に思ったのは、依頼主から頼まれてやったことなのに、ということでした。理屈の上では、こちらに落ち度はありません。それでも、その方は本気で怒っていました。
争うつもりは、まったくありませんでした。それでも結果として、倒すつもりのなかった人を、負かしていました。
戦うつもりがなくても、ときに争いは起きます。近くには見当たらないと思っていたものが、自分の仕事の中にありました。
私が見ていたのは、依頼主と、その先にいる利用者です。訪れた人が迷わないように、必要な情報に適切に届くように。このサイトをつくった人のことまでは、正直、考えていませんでした。
サイトには、いつも必ず作った人がいます。その人から受け取って日々更新する人がいて、その先に、それを見るお客様がいます。ひとつのサイトの上に、それだけの人が並んでいました。
目の前にある形は、その人が、そのときの条件のなかで考えて出した答えです。私が変えたのは、構成やデザイン、集客のための設計などでした。相手にとっては、出した答えごと消されたのと同じでした。
このとき、自他不敗という言葉が戻ってきました。
相手を打ち負かせば、悔しさが残ります。勝負はついても、争いは終わっていない。仕事にどう置き換わるのか分からなかった言葉の意味を、自分が負かした側になって、痛感しました。
敬意を先に置くと、争いが起きなくなった
それ以来、サイトを改善するときは、制作者の方に必ず敬意を払うようにしました。いまのサイトの良いところを、先にお伝えします。
良いところを探すつもりで見ると、本当によく見えてきます。この配置にした理由や、当時の条件のなかでの工夫が読み取れることもあります。全部を作り変えることもありますが、何を変えるかより先に、何を残すかを見るようになりました。
もちろん、直すべきところは直します。遠慮して言わないのとは違います。良いところを見てから直す、という順番にしただけです。
そうしたら、ぶつからなくなりました。
稽古では、相手に尊敬と感謝を向けると、相手のほうに攻撃しようという気が起きなくなる、と何年も前から教わっていました。何のことか分からずに聞いていた言葉が、ここで結びつきました。敬意は、相手のためだけのものではありません。こちらの構えが変われば、相手の側に戦う理由がなくなります。
これが、争いにならない状況をつくる、ということでした。
相手の自由のなかに、自分の自由を見つける。稽古で先生から教わった言葉です。
相手が動きたいように動かせながら、そのなかで自分も自由に動く。だから、力がぶつかる場所がありません。これは仕事にも置き換えられました。相手の望みを潰さずに、そのなかで自分のやりたいことを通す。ぶつからない道は、たいていどこかにあります。
一見、遠回りに見えます。実際は、こちらのほうが早く着きます。もめたあとの説明も、こじれた関係を直す時間も、いらなくなるからです。
サイトに限った話ではありません。前の担当者のやり方を一度に変えるときも、同じ順番が効きます。
投げているのに、支えている
武術の稽古で教わるのは、倒し方より、体の整え方のほうがずっと多いものでした。体が整うと、相手との関わり方まで変わってきます。

これを、私は武術の外でも感じるようになりました。ブラジリアン柔術は、ルールのある格闘技です。勝ち負けがあり、相手を制することが前提にあります。始めたころの私は、力任せでした。白帯には、そういう人が多いのです。
あるとき、力を抜くことを覚えました。ふっと力を手放すと、触れているところから相手と神経で繋がったような感覚になる瞬間があります。脳が二つ、腕が四本、脚が四本ある生きもの。妙な言い方ですが、相手の筋肉がどう動くかまで分かります。
力で押し合っているあいだは、相手の動きは読めません。抜いた瞬間に、伝わってきます。しかも、力を抜いて相手に体重を預けたほうが、相手には重く感じられる。ルールの中の競技であっても、起きていることは武術的だと私は思っています。
ある武術教室では、椅子を持つ稽古を教わりました。椅子の重心より、自分の重心を下に置く。これを対人でやると、面白いことが起きます。相手を投げているのに、投げている手ごたえがありません。支えている感覚に近い。
投げられて笑ってしまうのは、この投げ方をされたときです。私も何度も、笑いながら転がされました。押さえつけられれば人は抵抗しますが、支えられたら抵抗のしようがありません。勝ち負けがついていないから、悔しさも残りません。
自他不敗は、心構えだけではなく、技として存在していました。
強さとは、相手を倒す力のことだと思っていました。いまは、相手が安心して転べるようにすることだと思っています。
そのために先にやることは、相手をどうにかすることではありませんでした。まず自分を整える。崩れたら、また整えて戻る。それができていないうちは、相手に何かをする以前の話です。稽古の大半が体の整え方だったのは、そういうことだったのだと思います。
仕事でも変わりません。うまくいかない案件があると、人は相手や条件のせいにしたくなります。私もそうです。そういうときこそ、自分が整っていない。それに気づくところから始めるようになりました。
道場で習ったことは、道場の中だけのものではありませんでした。制作者の方の仕事の上に、自分の仕事を重ねるやり方。人と向き合うときの間合い。稽古で身につけたことが、そのまま仕事や日々の暮らしで活用できています。
先生は、世界チャンピオンは通過点だと言っていました。武も同じで、たどり着く場所ではなく、入口でした。
平和は、目指して着く場所ではないのだと思います。一人ひとりが自分を整え、本来の力を発揮する。そうやって周りと調和していった結果、そこに現れている状態です。
残念ながら、いまの私に、国と国の戦争を止める力はありません。
手が届くとすれば、目の前で起きていることです。それも、相手や状況によっては決して簡単ではありません。それでも、戦わずにおさめられる人が一人増えれば、その人の周りから、争いがひとつ減ります。
その先に世界平和があると考えるのは、甘いのかもしれません。それでも、手の届くところから始めるほかに、道を知りません。この先に何ができるようになるのかは、続けてみないと分かりません。探求は、まだまだ続きます。
これまでの話
第1弾: Web屋が世界平和を語る理由|小手先は対策される。本質は対策のしようがない
第2弾: 何のために命を使うのか|人生に「芯」が欲しい人へ
第3弾: 利他は、他人のためじゃない|「相手も含めて自分」という考え方
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